グッバイ シーシェル【男1:女1】

題名『グッバイ シーシェル』NL版

声劇用 男性1名 女性1名 45分程度


・日比野 柊生(ひびの しゅう):カフェのマスター。33歳。コーヒーとカレー作りが得意。優しく繊細。

・井芹 凛香(いせり りんか):若き女性建築デザイナー。32歳。柊生の店の常連客となる。仕事はできるが恋愛には口下手。


※タイトルの「シーシェル」(seashell)の和訳は「貝殻」です。

※「柊生M」「凛香M」と表記してモノローグが入ります。

※本作の“マスター“は『ラブレター504』と『焦がれるスパイス』に出てくる“マスター“として書いております(BL版とNL版があります)


BL版もございます



以下をコピーしてお使いください


題名「グッバイ シーシェル」

作:みつばちMoKo

日比野 柊生:

井芹  凛香:

https://mokoworks.amebaownd.com/posts/52379543/





【カフェ】


柊生:お待たせ。 はい、今日のおすすめのコーヒー。


凛香:わ、ありがとう。 今日のは?


柊生:眠そうだから、コクと苦みの強いやつにしといた。


凛香:ふふ、よく分かったね。 その通り、眠いんだ、昨日からあんまり寝てない。


柊生:締切、近かったの?


凛香:お客様の都合でちょっと納期が早くなったの。さらに会社が私にそれを伝えるのが遅くなって。


柊生:なにそれ、会社のせいじゃん。ひどいね。


凛香:流石に今回は私も怒ったよ。でも最終的には私がやらないとどうしようもないからさ。それにお客様が私のデザインでっていうご指名だし。


柊生:へー、ご指名はありがたいね。


凛香:ほんとその通り。前に私がデザインした家を見て是非にってお話しを貰ったんだ。でもね、自分がデザインした家が私好みであっても、お客様に気に入ってもらえなければ意味がないし、ご指名っていうのはやりがいとプレッシャーの紙一重な気もする。


柊生:そうだね。


凛香:だから、ここに来て癒してもらってるわけ。


柊生:ふふ、ありがたいお言葉。癒されてるなら嬉しいけれど。 あっ、カレー食べる??


凛香:あー…食べたいところだけれど…、満腹になったら本格的に寝そうだから、やめとく。


柊生:ん、わかった。


凛香:でも…。夜、うちに届けてくれると助かる。


柊生:うん、いいよ。店閉めてから行くから、いつもぐらいの時間になるけれど。


凛香:全然構わない。むしろ助かる。夕方にはこの件、一旦落ち着くはずだから。夜は普通に帰れる。


柊生:そっか、じゃあ家で待ってて。なるべく早く行くから。


凛香:慌てなくていいからね。

ていうか、ここのカレー、クチコミで評判高いのに、それを家で食べれるのって贅沢だよね。


柊生:ふふ、まぁね。


凛香:なんていうか……恋人の特権?みたいな。あっ、言っとくけど、柊生のコーヒーとカレーに惚れたわけじゃないからね。いや、それにも惚れたのは、まぁ、うん、認めるけれど…。こんなに美味しいものを作る人は絶対いい人に違いないって。その、なんていうか…。あー…上手く言えない。


柊生:ふふ、大丈夫。ちゃんと伝わってるよ。初めてカレー注文したときがきっかけみたいなもんだからね。


凛香:そう、このカウンター席でね。あれ以来、ずっとカウンター。


柊生:テーブル席の方が広いのに。仕事もしやすいと思うんだけど。


凛香:ここじゃないと柊生とこんなに話せないから。言ったじゃん、癒してもらいに来てるって。


柊生:僕と話すのは癒しなの??


凛香:そう、恋人に会いに来てるんだから。一番の目的はそこ。


柊生:……ねぇ、口籠ったりもするくせに、たまに甘くなるのなんなの?


凛香:たまにはこういうこともちゃんと言わないとって最近思って。


柊生:そっか。ふふ、まぁ嬉しいからいいや。

あ…。僕…、間違ってないよね? 喜んでいいんだよね?


凛香:だからそれ…。大丈夫、柊生は間違ってないよ。素直に喜んでいいんだよ。


柊生:そっか。……よかった。 でも……周りには秘密じゃないの? 僕たちのこと。


凛香:社長が一人前になるまでは恋愛にうつつを抜かすなって。この業界、まだ女性が少ないし立場もあまり高くないからね…。まぁここは会社から遠いし、バレないと思う。それに常にカウンターにいるから周りには何話してるかまで聞こえないはず。


柊生:でも最近は雑誌とかメディアに出る機会もちらほらあるじゃん。


凛香:なんとかなるよ。


柊生:無理はしないでよ。


凛香:わかってる。じゃあ、悪いけど仕事戻るね。また夜に。


柊生:うん、夜に。


凛香M:彼は自分が何か間違えていないか、よく私に問う。メニューや店のことなんかは自信があるくせに、自分自身のことは全くもって自信がないらしい。思えば出会った頃からそんなことを言っていた。



【カフェ(回想)】


柊生:すみません、今日は混んでて、カウンターしか空いてなくって。もう少しでできますので。


凛香:いえ、いいんです。一人だし、全然。仕事でこっちの方たまに来るんですけれど、いつもどんなお店かなって気になってたんです。


柊生:そうなんですか。来ていただいて嬉しいです。


凛香:やっと来れたって感じです。


柊生:お待たせしました。カレーです。コーヒーは食後にお持ちしますね。


凛香:……いただきます。

(一口食べる)

美味っ。


柊生:へっ?


凛香:あっ、ごめんなさい。すごく美味しくて、思わず声が。


柊生:あぁ、ふふ、ありがとうございます。


凛香:うん、美味しい! これ、もしかしてスパイスから…ですか? 後ろの棚にそれっぽいものがたくさん。


柊生:あ、はい、そうなんです。凝り始めると止まらなくって。


凛香:へぇ、すごい。


柊生:お客様に喜んでもらいたいなって思って。初めは趣味程度でしたけど納得できるものが作れるようになったので、お店で出すことにしたんです。


凛香:初めて入ったお店で、こんなに美味しいものに巡り会ったのはラッキーです。


柊生:よかったです。ごゆっくりお召し上がりください。


凛香:はい、あっでも美味しいからすぐ食べ終わってしまうかも。


柊生:ふふ、それはもっと嬉しいです。お水もついどきますね。


柊生M:お店に入って来たとき、目を奪われた。彼女の醸し出す雰囲気やオーラが好きだなと直感で思った。でも間違えちゃいけない。彼女を不快にさせないようにしなくちゃと普通を装った。彼女にこっちのドキドキが伝わってしまわないかとさらに緊張した。


凛香:美味しかったです。


柊生:ありがとうございます。


凛香:海、好きなんですか?


柊生:え?


凛香:だってそこ。レジの後ろに貝殻並べてるから。


柊生:あー、ただ好きなんです、貝殻が。……癒されるから。


凛香:いいですね。では、また来ますね。


柊生:えっ。また、来てくれるんですか?


凛香:えっ。来ちゃだめですか?


柊生:あっ、いえ、その、初対面で色々語ってしまったから、気持ち悪いって思われたかもって。ちょっと浮かれてしまって。


凛香:へ? 全然そんなことないですよ。 むしろ、癒されました。


柊生:ほんと…ですか? 僕、……間違えてなかったですか? 


凛香:ふふ、間違えてないです。楽しかったです。


柊生:あ…、おつり…です。


凛香:もっと自信持っていいですよ。誰かに何か言われたのかもしれないけれど、私は楽しかったです。

じゃあ、また。ご馳走様でした。


柊生M:泣きそうだった。家族でも友達でも自分が好意のある相手に自分を否定しないでくれることがどんなに嬉しいか。たった数分の会話。店を出ていく彼女の後ろ姿を、どうかまた会えますようにと、見えなくなるまで見つめていた。



【凛香の家、玄関】


柊生:じゃ、帰るね。


凛香:……


柊生:あれ?


凛香:ん……。


柊生:また店でね。


凛香:……ほんとに帰るの?


柊生:……帰るよ?


凛香:そっか……。


柊生:なぁに?どうしたの?


凛香:いや、久しぶりに会えたから…。


柊生:から?


凛香:なんていうか…名残りおしい…というか。


柊生:うん?


凛香:帰って欲しくない…というか。


柊生:……マジで?


凛香:いやっちょっと、ちょっと血迷っただけっ。


柊生:ふふふ、そんなこと言うの珍しい!


凛香:用事があるんだもんね、分かってる。大丈夫。


柊生:ごめんね。これから店の横の外壁直してくれる業者が来るんだ。


凛香:うん、そう聞いてた。


柊生:店の建物自体は古いからね、ほんとは建て直すかリフォームか、もしくは移転するのが一番いいんだろうけれど。少しずつ直して店続けてる感じなんだよ。


凛香:大変なんだね。


柊生:凛香も店来たら、仕事柄、気になるとこいっぱいあるでしょ?


凛香:まぁね。まぁ、あの感じがあのカフェのいいとこなんだけど。


柊生:うん、僕も気に入ってる。あっ、いつか僕の店もデザインしてよ。ずっとカフェは、やっていきたいからさ。……なんて、有名デザイナーさんにお願いする資金はないから一生無理だけどね、ふふ。


凛香:なんだ、冗談なの?


柊生:というわけでほんとに今日は帰らなくちゃいけないんだ。ごめん。


凛香:分かってる。今日は私、ゆっくりするよ。久しぶりの休みだからね。


柊生:じゃあ……はい握手。


凛香:握手?


柊生:ハグしよって言おうと思ったけど、離れがたくなっちゃいそうだから。だから我慢して、握手。


凛香:なるほど。ま、そうだね。


柊生:はい、手出して。


凛香:はい。ほら。


(握手する)


凛香:……ブンブン降らないで。


柊生:へへ。


(手を引っ張られ抱きしめられる凛香)


凛香:わっ。


柊生:ほんとに握手だけかと思った? …ハグもするに決まってるでしょ。


凛香:柊生っ。


柊生:行ってきます。


凛香M:繋いだ手をグッと引っ張られて一瞬だけ体をぎゅっとしたあと颯爽と去っていった。なんなの、ずるいじゃん。こういうのが幸せなんだろうな。どうかずっと、この幸せを感じていられますように。



【凛香の家(夜)】


柊生:(寝言)……ごめ…なさい。


凛香:…柊生? 柊生。 柊生!


柊生:ん……う……


凛香:柊生?


柊生:ん……


凛香:……大丈夫?


柊生:……ん…凛香?


凛香:そう。大丈夫?


柊生:……ん?


凛香:泣いてたから。 ほら、涙のあと。


柊生:……ごめん。嫌な夢見てた。


凛香:またあの夢?


柊生:うん。たまに見るんだ。疲れてるときとか。


凛香:よっぽど柊生の心の中に深い傷跡を残してるんだね。


柊生:僕が中学受験に失敗していわゆるエリートコースみたいのに乗れなくて。お父さんも親戚も医者や弁護士ばっかりの家系だったんだ。でもお母さんだけは味方になってくれるもんだと思ってた。


凛香:うん。


柊生:でも違った。あの時から僕はお母さんにとって「間違えて産んだ子」になった。


凛香:直接そう言われたの?


柊生:うん、何かにつけて「間違えた」って言われたよ。


凛香:そっか。辛かったね。


柊生:高校までは出してもらえたけど大学はバイトや奨学金でなんとかしてた。今のカフェはその当時のバイト先で。すっごい優しい年配のオーナーでさ、僕の事情もわかった上でいっぱいシフト入れてくれて。でも息子さん家族と一緒に住むことになったからお店を畳むって聞いてね、僕が跡を継げないかお願いしたんだ。


凛香:その話は初めて聞いたかも。


柊生:あれ、そうだったっけ。

辛かったことも話さなくちゃいけないから無意識に避けてたのかも。ごめん。


凛香:ううん、謝らなくていいよ。 私は、何をしてあげられる?


柊生:ううん、何もしなくていい。……ちょっとぎゅーってしてくれればいい。


凛香:もっと近くにきて。


(抱きしめ合う)


柊生:ふふ、体、柔らかいね。……あったかい。


凛香:こんなのでいいの?


柊生:うん。こうしてるとね、傷ついた気持ちも嫌だった出来事も、二人の体温で溶けて全部無くなっちゃうような気がするんだ。


凛香:いくらでも、いつまでも、抱きしめてあげる。


柊生:凛香のおかげで前よりは「間違えた?」って聞くことが減ったんだよ。ありがと。


凛香:私の場合そんな経験はなかったから…。柊生の痛みをわかってあげれなくて…ごめん。


柊生:ううん。そっちこそ謝らないで。


凛香:お互い様だね。だけど、これからも柊生が間違えてないかどうか私に聞くたびに、大丈夫、間違えてないって言うよ。それしかできないけれど、何回だって言ってあげる。


柊生:優しいね。


凛香:柊生にだけだし。こんなの普通だよ。 そうだ、少し、波の音、聞く?


柊生:ふふ。普通、貝殻を枕元に置いとかないよね。凛香の家に置きっぱなし。

お母さんに「間違えた」って言われたあと、この貝殻を耳に当てて波の音聞いて落ち着かせてたんだ。おじいちゃんが昔くれたんだよ。今でもお守りみたいなもの。


凛香:店にもあるもんね。貝殻。


柊生:あれは店のオブジェとして置いてるんだけど、あると安心はする。


凛香:そっか。


凛香M:しばらく抱きしめあったあと、どちらからともなく求めあった。口が上手くない代わりに私の体温で嫌な記憶を少しでも溶かすことができるのならと、強く求めた。もちろん優しく愛おしく。



【カフェ】


柊生:お待たせ。今日はブレンドにしたよ。


凛香:……うん。


柊生:どうかした?


凛香:ん?


柊生:なんか元気ないね。忙しい?


凛香:まぁ忙しいのは相変わらず。


柊生:だよね。この前、SNSに乗ってたけど、反響大きかったんじゃない?


凛香:うん、今のネット社会って恐ろしいね。いいことも悪いことも全部持ち込んできちゃう。


柊生:建築デザイナーの仕事以外で時間取られるの、嫌だね。


凛香:うん。


柊生:でも……仕事じゃないことで何かあったでしょ。


凛香:さすがなんでもお見通しだね。


柊生:当たり前。


凛香:実はね…。私たちのこと、会社の人間にバレたかもしれない。


柊生:え…。


凛香:私の顔を認知してる人も増えてきたからね。嫉妬して私を引きずり下ろそうとして何か弱点はないかと嗅ぎ回ってるんだろうね。


柊生:あー…。


凛香:詳しいことはわからない。でも、何か勘付いてるっぽいんだ。


柊生:ごめん。僕が仕事中に電話しちゃったからかな…。どうしよう……。会社にバレたら仕事しにくいよね?


凛香:私はバレちゃってもいいと思ってるんだけどね。女の方が有名だからとか収入があるからとか、ほんとなんなの。最近は私たちみたいなカップルも生きづらさがなくなってきてるように思ってたけれど……、まだまだ違うみたい。


柊生:そうだね…。ごめん、僕なんか間違えた…。


凛香:ううん、柊生は間違えてないよ。


柊生:でもっ。


凛香:心配しないで。なんとかするから。


柊生M:いつかこういう時が来るかもしれないと心のどこかで思っていた。同時に一緒に居れることが幸せでその時が来ないように願っていた。間違っていないと言ってくれる彼女を手放すことが怖かったんだ。



【凛香の家】


凛香:ごめんね、わざわざ家まで届けてもらって。


柊生:ううん、大事な資料だったんでしょ。カウンターの椅子に封筒置きっぱなしになってたから、すぐ気づいた。


凛香:普段こんなミスはしないんだけどね、疲れてんのかなぁ…。


柊生:すぐ気づいて僕が回収したから封筒の中身も誰も見てないよ。安心して。


凛香:ありがとう。ほんと助かった。会社着いて、めっちゃ焦った。柊生の着信に気づいてかけ直してよかった。


柊生:ううん、どういたしまして。


凛香:はぁ……良かった。


柊生:ほんと、疲れてるね。


凛香:なんか最近はね、特に。


柊生:何か余計な負担掛かってるからじゃない?


凛香:余計な負担?


柊生:そう、仕事以外で。


凛香:え? 別になにもないよ。


柊生:ほんと?


凛香:うん。何も。仕事が立て込んでるだけ。


柊生:あるよ。仕事以外に。


凛香:さっきから何? 何が言いたいの?


柊生:ねぇ、凛香。僕と付き合ってること、……重荷になってない?


凛香:はぁ? なにそれ。 なってるわけないでしょ。


柊生:仕事に影響が出てること、僕に隠そうとしてるでしょ。


凛香:……別に。仕事はちゃんとやれてる。


柊生:うそだ。


凛香:柊生に仕事のこと、とやかく言われたくない。


柊生:……。


凛香:あ……ごめん。嫌な言い方だったね。とにかく大丈夫。


柊生:そうやって、いつもなら言わないような嫌なこと言っちゃうのって、心や体にストレスが掛かってるからじゃない?おかしくなってるんだよ。


凛香:おかしいってなに。いつもと変わりないでしょ。


柊生:おかしいよ。


凛香:私は大丈夫だよ。言い方が悪かったのは謝る。少し休んだら元に戻るから、またどこかに旅行にでも行こうよ。


柊生:……いっつも僕を気遣ってばっかり。 なら……、なら言ってあげるよ。

(以下、キツめの口調で)

僕は心配してるフリをしただけだ。そういうフリに凛香は騙されてるんだよ。

最近、バレないように付き合ってるのも疲れてきてたんだ。

カレー届けるのも、体調を見てコーヒーを出すのも。

ほんとめんどくさい。


凛香:……は?


柊生:だから……。だから、別れてよ。 もう無理だから、別れて。


凛香:柊生…。


柊生:僕ら、きっと住む世界が違うんだよ。僕、もう疲れちゃった。


凛香:待ってて。今、貝殻持ってくる。


柊生:いいよ、いらないよ。そんなの聞いてもどうにもならない。


凛香:波の音聞いたら安心して落ち着くんでしょ。


柊生:いらない。

だって……。貝殻から聞こえる波の音って、ほんとは波の音じゃないってわかってる。

周りの音が貝殻の中で複雑に共鳴して揺らぎみたいな音に聞こえるだけだって。

そんなことわかってるんだよ。そうやって騙し騙し生きていってもいつか爆発する。

僕との付き合いも隠して疲れて、いつか爆発する。

なら、その前に別れた方がいいんじゃない?

疲れるなら、つらいなら……、ううん、もう疲れたから……別れよ。


凛香:柊生!


柊生:もうお店には来ないで。言わなきゃって思ってたから、忘れ物してくれてちょうど良かった。

貝殻はいいよ。あげる。お店にもまだいっぱいあるし。

楽しかった。幸せだった。

……じゃあね。……元気でね。


凛香M:何も言えなかった。追いかけることさえできなかった。繊細な彼がどういう気持ちで今まで過ごしてきたかを受け止めるには一瞬のことすぎて無理だった。彼の優しさに、強がりに、甘えた私はバカだった。愛し合ったあの夜が今も脳裏に焼き付いている。



【凛香の家(夜)の続き】


柊生:ね、……もうちょっと…強くぎゅってしてもらっても…いい?


凛香:ん。このぐらい…? …もっと強く?


柊生:これで充分。……ありがと。


凛香:遠慮はしないでね。


柊生:こういう波の音が聞こえるところでずっと暮らせたらいいなぁ…。

そういえば最近ね、雑誌に出てる凛香見てたら、遠い人になっちゃったって思ってた。


凛香:なんで。


柊生:凛香……。ずっとこうしていられたら、いいね。


凛香:そうだね。


柊生M:悪夢を見た夜。繋がることがあんなにもつらい気持ちを癒すなんて思ってなかった。彼女の体温が泣きそうなほどあったかくて、傷ついたあの記憶が、ほんとに溶けていくようだった。でも、あの夜にはもう戻れない。もう二度と戻らない。



【カフェ】


(馴染みのお客様と会話)

柊生:はい、おつり。久しぶりに来てくれてありがとうね。……幸せそうだね。幸せになったんだね。

いや、僕はまだまだ。そうだな、ずっと一人かもしれないな。……なんてね。

ありがとう、また来てね。お隣の彼と一緒に。

(お客様を見送る)


柊生:いらっしゃ…


凛香:カレー。それとコーヒー。


柊生:なんで…。


凛香:コーヒーはおすすめのをお願い。


柊生:……。


凛香:聞いてる?


柊生:なんで?


凛香:さぁ、なんでだろうね。


柊生:もう…来ないでって。会うことはないって…。


凛香:いま会ってる。


柊生:だからっ。たぶん僕、戸惑ってる。


凛香:あれからもう3ヶ月だからね。 …久しぶり。元気だった?


柊生:……。


凛香:ばかっ。泣かないで。


柊生:だって…。


凛香:ちょっと話したくて。 まぁ食後でもいいんだけれど。


柊生:あっ、えっと、いま用意する。


凛香:待って。やっぱり先に伝えたい。


柊生:えっ。


凛香:これ、見て。

(家の設計図を見せる)

新しい家のデザイン。


柊生:あーうん。仕事、頑張ってるんだね。


凛香:私たちの。


柊生:え?


凛香:私たちの家のデザイン。


柊生:……は?


凛香:場所はここより少し南の地方。そして海岸沿い。


柊生:海岸…。


凛香:歩いていける距離に海がある。


柊生:歩いて?


凛香:そう。波の音がいつでも聞ける。


柊生:それって。


凛香:貝殻だけじゃなくって、本当の波の音が聞ける。


柊生:どういうこと??


凛香:別れたけど、どうしたら柊生と一緒にいれるか考えていたの。会社という組織に居られないなら、別にそこに属さなくてもいい。幸いフリーでやれる仕事だし。今の時代、ネットでデザインも確認してもらえるご時世。だから、都会から離れていても大丈夫。


柊生:でも、僕と一緒なんて…。


凛香:ばか、柊生と一緒じゃなきゃ意味がない。柊生と一緒に住むために、暮らしていくために建てる家なんだから。


柊生:ほんとに?


凛香:うん。


柊生:僕、ひどいこと言って別れたんだよ。


凛香:あれは、私のために言ったのなんてお見通し。 あの時、柊生の苦しさにすぐに気づいてあげれなくてごめんね。


柊生:いいの? ほんとに? ……ほんとに一緒に住んでもいいの?


凛香:うん。


柊生:ずっと? ずっと一緒にいていいの?


凛香:うん。


柊生:僕…、僕、今ここで「一緒にいたい」って言っても間違ってない? わがままみたいなこと言っても間違ってない?


凛香:柊生は間違えてないよ。少なくとも、一生の伴侶に私を選んだことは絶対間違えていない。ていうか、私が柊生がいないと無理なの。


柊生:……ばか。


凛香:お互い一緒にいたいと思ってるんだから、離れるなんて馬鹿げてる。そう思わない?


柊生:ふふ、そうだね。 僕は…凛香と……一緒にいたい。


凛香:よかった。私も柊生と一緒にいたい。

待たせてごめんね。色々整理したり、いい土地探したりしてたらこんなに時間が経ってた。


柊生:ううん、もう会えないと思ってたから。嬉しいに決まってる。


凛香M:驚いている彼も泣き顔から笑顔になった彼も、やっぱり愛おしい。ここまでくるのにあったゴタゴタも、この一瞬でチャラになるぐらい幸せだった。だから私も間違ってない。彼と一生を過ごす私は幸せになるに違いない。だから、最後に感謝を込めて、もうひとつサプライズを。


凛香:それと、ここ。間取り図のここの部分。新しい家の一部で小さなカフェができるようにしてある。


柊生:えっ。えっカフェ? ほんとに? カフェ?


凛香:うん。もちろん営業できるようにする。


柊生M:目の前にいるのが、本当に彼女だとまだ実感できそうにない。こんなことってあるのか。きっと僕は一生分の幸せを今手に入れた。だから僕の人生は間違っていない。絶対、間違っていない。貝殻もきっと、もう必要ない。


凛香:だから、朝はそこで私のためだけにコーヒーを淹れてくれない?


柊生:…ばか。もちろんとびっきり美味しいコーヒー、毎日淹れるから。


凛香:それとね、柊生。

この世に生まれてきてくれて、ありがとう。


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